活動報告

溝旗神社「ちょうちん祭」

毎年満月の夜に行われる「ちょうちん祭」

溝旗神社では昔から「旧暦の水無月15日満月の日を御祭神縁の日と定め毎年祭典を斎行する」とされていて、毎年旧暦の水無月15日満月の夜に「ちょうちん祭」がおこなわれています。理由は定かでは無いですが、なにか理由があるのでしょう、これを神様と人の約束ごととして、同じ月夜の下、連綿とお祭りが行われ続けられています。旧暦で行うので毎年日にちは変わります。

ちょうちん祭のちょうちんは御祭神が退治した八岐大蛇の目を現しています。
家族分の赤ちょうちんを吊した竹竿を持って参拝し、祓いを受け清められたちょうちんを家の軒下などに吊す事で夏の病魔が家に入ってこなくなる、雷除けになると信仰されています。
また町内(白山、梅林、華陽)の家々の玄関には御祭神縁の「蘇民将来子孫」の護符が祀られていますがこれもこのお祭の時に授与しています。
祭典日には御祭神により近づき五色の願いに染められた「蘇民将来子孫」の護符を授かる特別祈願祭も行われます。
それぞれの色に願いが込められ、家の四方にお祀りすることでそれぞれの福が舞込み支障のあるものを祓い除けると信仰されています。
家の四方にお祀りすることが困難な方もいらっしゃる事情を考慮し1番祈祷時にあわせて方位の解除を御祭神に奉告をしていますので、それぞれの自宅にあった祀り方をして頂いてもなんら問題ありません。

溝旗神社の御由緒

用明天皇2年、この地域に疫病が流行り素戔鳴尊に祈請したところ霊験が顕著に現れたた為、社殿を創建したとされました。
素戔鳴尊は午頭天王と呼ばれ、そのため神社は「お天王さん」「天王社」と呼ばれていました。

明治になり鎮座地の「溝旗」の地名から「溝旗神社」となりました。
溝旗は岐阜町と上加納村との境目(溝)を示すための旗が立っていたことから名付けられたとされています。
戦前から昭和46年まで神社付近長住町、元町をはじめこの地帯に総合卸売市場が形成され、名鉄各務原線安良田町駅(現名鉄岐阜駅~田神駅間)も目の前に存在していました。
昭和13年には本殿以下各建造物の造営を行いました。
設計を依頼した伊東忠太は西洋建築学を基礎に日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し日本建築史を創始した人で、昭和18年建築界で初めて文化勲章を受章した建築家です。

昭和20年岐阜空襲の被害を受け、手水舎と神楽殿(現社務所)を残し焼失しますが、ご神体は神職奉持して避難、御安泰を得ました。
設計図も焼失を免れ、その設計図を基に新たに造営し現在に至ります。

今も溝旗神社東にある天王坊稲荷神社鳥居の色、狐の耳、常夜灯の土台などから空襲の爪痕が伺えます。
当時境内には樹齢800年以上と云われた木が存在していましたがそれも空襲により被害を受け、「大きな音をたて倒れた」と当時の宮司の話を書き留めた物に記載されています。現在は同じ場所からまた新しい木が育っています。

境内社の肇國神社もまた当時の時代に影響を受けています。もともとは現各務原航空自衛隊基地内に当時岐阜陸軍航空整備学校第二教育隊内に創建され航空安全、航空技術を学ぶ学生達の守護神とお祀りされていましたが、敗戦により学校地がアメリカ軍に接収されるにあたり神社を守る為当社境内に遷したとされています。その後、少飛会の方々を中心に祭典を斎行しておりましたが、最近では御朱印ブームの影響もあり航空関係者や航空ファンのお参りが増えています。

溝旗神社
住所:〒500-8169 岐阜市溝旗町3丁目1
TEL:058-262-9437

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